読売新聞00/08/06:

[ランドマークが見た100年]番外編“多国籍”学校(連載)=神奈川

 

◇セントジョセフ・インターナショナルスクール

 

◆日本語禁止の“多国籍”学校100年で廃校、卒業生に残る「信念と不屈の精神」

 濃紺のガウン姿の生徒が、エルガーの行進曲「威風堂々」に合わせ、一歩、また

一歩と講堂の通路を進む。そのたびに、角帽に下がった房が、父母や外国から駆け付けたOBらの祝福の拍手を受けて揺れた。

 

「ここに、二〇〇〇年クラスの卒業を宣言する」。壇上に並んだ十三人の“主役”は、ジョン・オドンネル校長の言葉を待ちかねたように、角帽の右側に下がっていた房を、卒業の証(あかし)である左側に移し、互いに抱き合い、飛び上がって喜びを表した。舞台の左右には、校旗と日本やアメリカ、英国などの国旗が飾られ、式は英語で執り行われた。すべてが、日本の高校の卒業式とは趣を異にしていた。

 

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五月二十七日、セントジョセフ・インターナショナルスクールの記念すべきミレニアムの卒業式が行われた。だが、これが最後の卒業式で、百年の歴史を持つ学校は、この日をもって廃校となった。

 

一九〇一年(明治三十四)、キリスト教の修道会「マリア会」が、外国人子弟の教育機関として横浜・山手にセントジョセフ学院を開校した。やはりキリスト教の修道会が山手に設立したダーム・ド・サンモール(現サンモール・インターナショナルスクール)に次ぐ、日本で二番目に古い国際学校で、校名は、学校開設の任を負った修道士が成功を祈った、聖ヨゼフにちなんで命名された。

 

「同級生の国籍は、米、仏、トルコ、中国、韓国と様々。ロシア大使の息子や『おやじはインドネシアの王様だ』と言うのもいたよ」

 

元町の「喜久家洋菓子舗」社長の石橋久義さん(80)(三八年卒)は二九年(昭和四)、地元の小学校からセントジョセフに編入した。貿易商や外国人が買い物に訪れるハイカラな街では、英語は“必需品”。転校は、欧州航路の客船で洋菓子を作り、五年前、店を構えたばかりの父親の意向だった。

 

校内では日本語は禁止、けんかも英語だった。いたずらをすると、一メートルほどもある寒竹の棒でしりをたたかれた。「『ユー、ノーティボーイ』って、げんこつでゴツンとやられた。でも、なぜ怒られたのか、ちゃんと教えてくれたよ」

 

教師である修道士は、宗教と教育に一生をささげ、多くが山手の外人墓地に骨を埋めた。「今になると、愛情を持って教えてくれたことが、身にしみて分かる」。石橋さんは、子孫もセントジョセフに入れた。

 

石橋さんが卒業する前年の三七年(昭和十二)には、日中戦争が始まり、街にも戦雲がたち込めていった。国と国との戦争に、多国籍の生徒が通う国際学校が無縁でいられるはずはなかった。

 

陸軍に入隊、中国で負傷して、四一年十二月に兵役免除となった石橋さんは、店の前で、懐かしい名前で呼び止められた。

 

「おい“イシ”。お菓子食わせろよ」。セントジョセフの先輩や旧友だった。なぜか二十人ほどもいた。「その時は知らなかったけど、みんな収容所に入れられてたんです」。太平洋戦争が始まり、“敵性外国人”は新山下町のヨットハーバーや根岸競馬場に強制収容された。まとまって、近くの歯医者に連れていかれる途中だった。

 

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学院は開戦と同時に閉鎖、ヨーロッパ系の修道士は四四年(昭和十九)、強羅に軟禁状態となった。アメリカ人修道士は四二年(昭和十七)の交換船で強制送還。戦後、学校に戻り、校長も務めたアロイジオ・ソーデン修道士もその一人だった。

 

二十二年間、母校で日本史などを教えたジェフリー・ミラーさん(52)(六七年卒)は、ソーデン修道士の影響で教師になった。まず、生徒に考えさせ、どんな意見を言っても大切にしてくれた。「彼の前なら自分のベストが出せる。自信をつけてくれる先生でした」。米国の大学院で日本史と東洋史を学んだ後、また、学院の教壇に。「彼は本当に日本を尊敬していた」

 

卒業生はつい最近、ソーデン修道士の意外な過去を知った。送還後、米海軍情報局で日本軍の暗号解読作業に携わっていたと報道された。戦艦ミズーリ号での終戦調印式にも、通訳として立ち会った。

「愛する国が敵になり、つらかったはず。武器を使わず、早く戦争を終わらせたかったのでしょう」とミラーさんは想像する。

 

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戦後、セントジョセフには再び、各国大使の子弟が通い始め、進駐軍将校の子供もこれに加わった。生徒は、進駐軍とともに流れ込んできた米国文化に、どっぷりと漬かった。

 歌手のウイリー沖山さん(67)(五五年卒)は、在学中から大学生らに交じって米軍キャンプで歌っていた。ハーフのタレントが次々と現れ、先輩のE・H・エリックさん(71)(五一年卒)はもう司会業をしていたし、隣の席に座っていた弟の岡田真澄さん(64)は「学校に来ないなと思ってたら、日劇に出ていた」。

 

だが、日本の学校卒業資格が得られないとして日本人の入学者が減り、外国人子弟も減って、在校生は半数に落ち込み、マリア会総本部の、修道士の派遣中止で、廃校が決まった。

 

卒業生の多くは、欧米の大学に進学、日本人卒業生も語学力と国際感覚を生かして、世界を舞台に活躍する。

 

「Forward with faith and fortitude(信念と不屈の精神を持って前進せよ)」。一世紀に及ぶ歴史のうねりを乗り切ったところで、学校はその幕を閉じたが、卒業生の胸には、この校訓が輝きを失わず、刻まれている。(谷川泰司)

 

 ◇…セントジョセフとオランダ…◇

 

セントジョセフの卒業生ついて調べている本間千秋さん(52)(66年卒)によると、今年、日本との交流400年を迎えたオランダと卒業生との間には、不思議なつながりがあるという。

 

横浜開港翌年の1860年(万延元)、福沢諭吉らを乗せた「咸臨丸」がアメリカに渡った。提督は軍艦奉行の木村摂津守喜毅。この木村の姉と幕府の奥医師・桂川甫周の間に生まれた二女みねが、今泉純一さん(50年卒)の祖母に当たる。

 

また、ペリーの浦賀来航前年の1852年(嘉永5)、オランダ国王から長崎・出島の商館長と特命全権大使に任命されたヤン・ヘンドリック・ドンケルクルティウスの孫ヘルマン・ドンケルクルティウス(1903年卒)は、セントジョセフの第1回生で、その息子と娘の3人も43年から50年にかけて同校を卒業した。ヘンドリックは、開国を迫られた日本と欧米各国との仲介役を果たした。

 

また、咸臨丸を建造したオランダの造船所の、現在の日本代表ハンス・メツカーさんは58年卒。

 

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同校には、彫刻家のイサム・ノグチも在学。卒業生には、ノーベル化学賞を受賞したチャールズ・ペダーセン(22年卒)やラジオ講座の英語講師を長く務めたジェームズ・ハリスさん(33年卒)、最近では、吉沢建治・東京三菱銀行副会長(51年卒)、建築家の神田駿さん(60年卒)、竹内弘高・一橋大学大学院教授(65年卒)らがいる。

 

写真=セントジョセフの生徒を対象にした「ボーイスカウト国際第1隊」は、1918年に活動を始め1999年まであった。1956年に軽井沢で開かれた第1回日本ジャンボリーに参加した一行は、堤康次郎の別荘に招かれた(田辺邦夫さん提供)

写真=修道士による宣教活動も行われた(「マリア会日本管区100年のあゆみ」より)

写真=関東大震災で校舎が焼失。神戸で、避難していた生徒らを集めて授業を続け、1925年に横浜に戻った後、徐々に復興していった(1935年ごろ。「マリア会日本管区100年のあゆみ」より)


00/08/06